地球人の学校

愛と知恵と人間らしさと

 

── 愛は勇気と寛容さのこと。知恵は人が安心安全に暮らすために必要な哲学のこと。そして人間らしさとは、人を手段や道具のように扱わない倫理観のこと。

その愛に耳を澄ませる

 

 

── 目には見えていない残りの半分。そんな感覚に意識を向ける。

裏側と言うよりも内側にある半分。決めつけたり評価したりせず、目には見えない自分の内側にある半分と、目の前の人の内側にある半分に耳を澄ませる。

 

どんなモノでもコトでも、何と組み合わせるかで、まったく異なるエネルギーに変化する。

もしも愛が勇気と寛容さとの組み合わせなら、その愛は人を能動的にするだろう。

もしも愛が責任と干渉との組み合わせなら、その愛は人を受動的にするだろう。

あなたの愛は、能動/受動のどちらを引き寄せるだろうか...

砂漠の自然

──  地球人の学校のそもそものはじまりは、戦争のない社会のためにできることはなんだろうという幼少期の問いである。

その問いは、人はなぜ戦争を選択するのだろう。人はなぜ人を手段や道具のように扱うのだろう。人はなぜ人のせいにするのだろう。らに集約されてきている。

これらの問いの答えは無数にある。しかしながらおそらくすべての答えの中に、なんらかの「恐れ」の感情が潜んでいると思う。

だから、戦争のない社会のためにできることのひとつは、一人ひとりが自分の中の「恐れ」の感情と向き合うことだと思っている。

まずは、すべての自分の弱さや欲望と向き合ってみた。今までの経験や自分の中の常識をすべて偏見として疑ってみる。

すると妬みや見栄や嘘や孤独や罪悪感や怒りなどの悲しみの感情がが吹き出してきた。醜さを削り落とすためには、それらとさらに向き合う必要がある。

すべてを削り落とした後に残るものが知りたかった。その先にあるものが哲学であることは予感はしていた。

 

そこで「恋と恐れの平衡哲学」という表現でそれを共有することにした。

「恋」の対象は人だけではない。自分を能動的にするものすべてを指している。それに対して「恐れ」は、自分を受動的にするもののことを指している。

能動的とは、自分本来のチカラを、知性もしくは理性と喜びの感情に導かれて発揮すること。受動的とは、自分のチカラが悲しみの感情に支配されてしまうこと。

私たちは、外的な刺激を受け続けることで、能動と受動の間で動的な変化を繰り返している。そのことを「恋と恐れの平衡哲学」は意味している。

知性とは自分のことを知ろうと努めることであり、理性とは他人のことを知ろうと努めること。

 

知性もしくは理性をなるべく完成させようと努めることは、恐れの感情と向き合うことでもあり、人を手段や道具にしない社会の共創につながる。

このような文脈において、戦争のない社会のためにできることは、知性もしくは理性をなるべく完成させるように努めることに他ならない。

伝統的な図書館

正しさ」とは

 

── 正しさとは違いを認め合うこと。

 人が人を評価する。その世界観での「正しさ」は、人間が自分のエゴを正当化するための手段や道具としてたびたび使われる。もしも人間のエゴが正当化されるのであれば、社会は悲しみの感情で支配されてしまう。

悲しみの感情とは、恐れ、怒り、憎しみ、哀れみ、妬みなどの感情のこと。悲しみの感情は自己防衛を同時に引き寄せるから、人は相手を攻撃するか、もしくは無関心を装うことで避難するかのどちらかの選択を迫られる。

 日常の生活を少し気にかけてみるだけで、自分にも無意識に人を手段や道具のように扱ってしまっている場面があることに気づかされる。

 誰ひとり取り残さない社会とは、人を手段や道具にしない社会のこと。人を手段や道具にしない社会を共創するためには、まず自分が人を手段や道具のように扱わないようにするほかない。

 世界中のすべての人が、自分の周りの人を気にかけることができれば、世界中のすべての人は自分の周りの人から気にかけてもらえるようになる。誰ひとり取り残さない社会は、自分が周りの人を気にかけるだけで実現する。

図書館の棚

個の在り方に意識を向ける

 

 

 

── 至福の時間とは、知性もしくは理性に刺激を享受するような時間のこと。自分の内実に向き合い、認識を深めることで周りの人を喜ばせることにもつながる。

人間は知性もしくは理性をなるべく完成させるように努めなければ、自分の内実に耳を澄まさない受動的な在り方の甘い魅力に取り憑かれてしまう。

なにしろ組織や関係性によっては、自分の内実を遠ざけた方が楽で安全で称賛されることまであるからだ。しかしそれはやがて内実なき精神主義へとたどり着く。

内実なき精神主義のいちばんの特徴は、人が恐れの感情に支配されていることだ。恐れの感情で思考は停止し、人は手段や道具のように扱われる。

人を思考停止にするために利用される言葉がある。

「それは理想でしょ」

こんな文脈で、人を瞬時に思考停止にすることができるから便利に利用されてしまう。内実のない精神主義でもなければ、このような稚拙な関係性は起こらない。

そもそもこの文脈なら理想主義も現実主義も共に理想主義である。理想がその人の理想の選択であるのか、現実がその人の理想の選択であるのかの違いだけである。

ここで最も大切なことは、理想であれ、現実であれ、それが人間のエゴではなく、知性もしくは理性の進化を起点とした選択でなければならないということだ。