地球人の学校

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​一般社団法人 地球人の学校

 

 

── 教育の目的は、自分の魅力の幅を広げること。

それは生涯にわたり、知性もしくは理性をなるべく完成させるように努めること。知性とは自分を知ろうとすることであり、理性とは他人を知ろうとすることに他ならない。 知性も理性も完成することはないから、なるべく完成するように努める。

 知性もしくは理性の進化とともに、人は自分と他人が不可分な関係であることを認識する。そして人は自分の魅力の幅を広げ、自分のチカラを能動的に発揮することで社会に貢献しようと努めるようになる。

ある人は医療の分野で貢献するために学ぶかもしれない、ある人はパン職人になるために学ぶかもしれない。

教育の目的は、自分の魅力の幅を広げること。

屋外を読む子供たち

人を手段や道具にしない社会の哲学

── 人を手段や道具にしない社会のために、目には見えない大切なものに耳を澄ませる。人間の尊厳、能動的に生きる、まんなかにある自由、愛と知恵と人間らしさ、勇気と寛容さなどに意識を向けると、人は知性もしくは理性を引き寄せることができる。

 知性とは自分のまんなかを知ろうとすることで、理性とは相手のまんなかを知ろうと努めること。喜びの感情とは、愛と知恵と人間らしさが循環するときに起こる感情のこと。

 学びとは、知性もしくは理性をなるべく完成させるように努めること。自分の中に湧き起こるエネルギーに耳を澄ませて、自分と自分の周りの人たちを喜ばせることに意識を向けること。

 職業とは、人が知性もしくは理性と喜びの感情に導かれてチカラを発揮することで社会に参加すること。

ファッションモデル

真に性別が平等な社会とは

 

 

Feminist: the person who believes in the social, political, and economic equality of the sexes.

- feat. Chimamanda Ngozi Adichie

──  真に性別が平等な社会とは、人を手段や道具にしない社会のこと。

森の中の修学旅行

── 地球という惑星はそもそも誰のものでもない。それは今も昔も変わらない。それなのに、国に領土があることに違和感を持つ人は少ないのではないだろうか。

人類は長い間、領土を奪い合い戦争をしてきた。現代でも都合の良い時代の史実を引用して、国の領土の正当性をお互いに主張し対立を続けている。

そもそも本来は誰のものでもないものの権利を主張し合うわけだから、争いが終わるはずもない。客観的に文字にすれば滑稽な話しでさえある。

だが人の命がたびたび犠牲になってきた恐ろしい歴史の話しである。そして間違いなく現在進行形の話しでもある。

 このままでは争いの歴史はこれからも繰り返されてしまうだろう。疑心暗鬼から争いが激化して、攻撃的にならざるを得ないような状況に自らを追い詰めるようなことが、どこの国にも起こらないことを願ってやまない。

──  地球人の学校の、そもそものはじまりは、戦争のない社会のためにできることはなんだろうという幼少期の問いである。

その問いは、人はなぜ戦争を選択するのだろう。人はなぜ人を手段や道具のように扱うのだろう。人はなぜ人のせいにするのだろう。に集約されてきている。

これらの問いの答えは、無数にある。しかしながらおそらくすべての答えの中に、なんらかの「恐れ」の感情が潜んでいると思う。

だから、戦争のない社会のためにできることのひとつは、一人ひとりが自分の中の「恐れ」の感情と向き合うことだと思っている。

まずは、すべての自分の弱さや欲望と向き合ってみた。今までの経験や自分の中の常識をすべて偏見として疑ってみる。

すると妬みや見栄や嘘や孤独や罪悪感や怒りなどの悲しみの感情がが吹き出してきた。醜さを削り落とすためには、それらとさらに向き合う必要がある。

すべてを削り落とした後に残るものが知りたかった。

その先にあるものが哲学である予感はしていた。そこで「恋と恐れの平衡哲学」という表現で共有することにした。

「恋」の対象は人だけではない。自分を能動的にするものすべてを指している。それに対して「恐れ」は、自分を受動的にするもののことを指している。

能動的とは、自分本来のチカラを、知性もしくは理性と喜びの感情に導かれて発揮すること。受動的とは、自分のチカラが悲しみの感情に支配されてしまうこと。

私たちは、外的な刺激を受け続けることで、能動と受動の間で動的な変化を繰り返している。そのことを「恋と恐れの平衡哲学」は意味している。

知性とは自分のことを知ろうと努めることであり、理性とは他人のことを知ろうと努めること。知性もしくは理性をなるべく完成させようと努めることは、恐れの感情と向き合うことでもあり、人を手段や道具にしない社会の共創につながる。

このような文脈において、戦争のない社会のためにできることは、知性もしくは理性をなるべく完成させるように努めることに他ならない。

── 幼い頃に自分とした約束があるように思う。記憶というよりは、どこかにメモ書きが残してある感じで時々思い出す。

 

そのメモ書きには、「途中まではなかなか大変な人生ではあるが、人生の最後の方は穏やかな時間を過ごすことになっているよ」というようなことが書いてある。

 

もしかすると人には言ってはならない自分とだけの約束かも知れないが、そもそもあまり具体的な内容ではないので、どうせ人には伝わらないからよしとしよう。

生きるのが大変かどうかは、その人の捉え方次第なことは理解している。それにたぶんではあるが、側から見たらそれほど大変には見えないとも思う。

 

それでも、生きるのが上手ではないなあとは自分なりに分析している。上手ではないというよりは、上手に生きることに、軽蔑に似た嫌悪感があると言っていい。

 

内実に忠実であれば、上手には生きられない。したがって周りからの風当たりは不必要に強くなる。迎合は潔さの対極にあると信じて疑わないから救いようがない。

 

少年は、青年になり、大人になっても、このことに関してなにも変わることがなかった。少年は少年のままの感性を忘れずに生きてきた。

 

実は、幼い頃に自分とした約束はもうひとつある。

 

「子どもの頃の気持ちを忘れないまま大人になる」

 

幼い頃の大人に対するもどかしさが、この約束になっているのだと思う。その意味では、私は幼い頃の自分との約束をしっかりと守ってきたのかも知れない。

 

だから必然的にメモ書きの通りの人生になることにもうなずける。

 

「途中まではなかなか大変な人生ではあるが、人生の最後の方は穏やかな時間を過ごすことになっているよ」

幼い頃の自分との約束は、きっと全て果たされることになるだろう。なにしろ人はいつか必ず死を迎えるのだから、いつかは穏やかな時間を過ごすに違いない。

ICHIRO ISHII